读完村上春树新作《第一人称单数》,意外地非常喜欢。说意外是因为他的书虽然每本必读,阅读过程也很愉悦,但常常不久后便忘得一干二净。偶然再看到书名,疑惑我真的读过这本书吗。这件事真的发生过吗,不时涌上这种疑惑,倒像他小说中的情节了。这些年在脑海中留下深刻印象的只有十来年前的短篇《哈纳莱伊湾》,或许故事中女主人公念念不忘的执着也传染了读者。而这本第一人称写下的短篇集我知道也会留下印记。
第一次在村上的文字里感受到年龄的痕迹。与日语老师聊起村上时,她说年轻时喜欢他的小说,到现在都记得《寻羊冒险记》的封面,难以相信已经过去三十多年,她问那村上现在该多少岁了啊?我说六十多?一查已经72岁。时间对每个人并不公平,但总归都会带走一些,也带来一些。对于实际年龄来说(无论哪个阶段),村上一直非常年轻。而我虽然幼稚,却也有早衰的一面。如今他老去了一点,我赶上了他的步伐。
八个没有完整剧情的故事,散文般的小说,像一段散步,反而比那些齐整的人生规划动人。反正再了不起的生活,也会被时间蛀空,留下来的是谁也抓不住的吉光片羽。一首钢琴曲,一场棒球赛,微暗的学校走廊里一个抱着披头士黑胶唱片的女孩。这些记忆片段当然是非常私人的,但私人的情感亦与他人相通,再细的溪流也通向河川。哪怕只通向一个人也留下了奔腾的证明。如今的村上深谙此道,可以坦然说出,「すみません。あの、これ黒ビールなんですが」。而我终于接收到他的频率,可以按剧本对话,「謝ることはないよ。ぜんぜん。だって黒ビールが来るのを待っていたんだから。」
这份坦然或许因为自知交付了真心,无愧无惧,如《石枕》上这段告白:「あれから長い歳月が過ぎ去ってしまった。ずいぶん不思議なことだが(あるいはさして不思議なことではないのかもしれないけど)、瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。目を閉じ、しばらくしてもう一度目を開けたとき、多くのものが既に消え去っていることがわかる。夜半の強い風に吹かれて、それらは――決まった名前を持つものも持たないものも――痕跡ひとつ残さずどこかに吹き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてになるものではない。僕らの身にそのとき本当に何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせていない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときとして自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。」献祭换来的证人,终与时间里的人相遇。这是作者对读者的恩惠,或许也会反过来成为慰藉吧。
因为读译本时十分喜欢,找来这些原文片段。村上的遣词造句真是给日语初学者以鼓舞,屡屡产生只要字典在手我就已经能读日语小说的幻觉。(怪不得之前买的一本日英对照日语短篇小说集把他的作品放在第一篇——到第三篇吉本芭娜娜时读一页的时间与精力至少是读他的三倍。)一行一行细读,读得艰难,又感动,无谓的人生得到了抚慰,生出一点“无论如何先这样活下去”的勇气。时常想我的时间都去了哪儿。或许那些漫无目的的散步,就是为了终于能够——各种意义上的——理解这些文字吧。看它们穿过茫茫荒野,撼动我的心,秋の終わりの夜の風のように。
